今日の投稿で父の他界については最後にしたいと思います。
そして、目一杯書き綴りたいと思います。
まず今回の父の死の経緯ですが、9月26日の午後に心肺停止の状態で自宅の居間で発見されました。
救急車で病院に搬送され心肺蘇生を施して貰うも父が戻ってくる事はありませんでした。
発見された際にパジャマ姿でいた事から、心肺停止してからかなりの時間が経過していたと思われます。
おそらく、一人でいる時に心室細動になりその場に倒れ込み、そのまま心肺停止し逝ってしまったのだと思います。
まさにピンピンコロリですが、あまりにも早過ぎます。
70歳を前にして、病院はおろか歯医者にも行った事がない様な人間が、こうもあっさりと逝ってしまうとは未だに信じられませんが、これが現実であり運命というものなのかなと思います。
『人は死んだ時に、その人の本当の価値が分かる』
と云われますが、私は父の通夜・告別式でまざまざとその偉大さを見せ付けられました。
私の目に映っていた父は、酒もタバコもギャンブルもせず、くだらない事を言って喜んでいる極々“普通”の真面目な男でした。
しかし、通夜・告別式で見た光景はその“普通”からは程遠いものでした。
通夜では、絶える事なく弔問客が訪れ、告別式ではホールに収まり切らない方々がエントランスにまで溢れ、椅子も足りなくなり、最終的にはロビーの長椅子が使用されていました。
挙句の果てには、4名もの方から弔辞を戴き、お焼香の列は途切れる事なく続き、とても多くの方が父の為に涙を流して下さいました。
身内を褒め称える事など、傲慢で恥ずべき事だと思っている私としてはこんな事を書く事に抵抗がありますが、今回ばかりは父の事で胸を張らせて下さい。
父が逝き、数日が経ち少し落ち着きを取り戻していますが、通夜・告別式とバタバタしていた時よりも淋しさや喪失感は増してきます。
『時間が人の悲しみを癒してくれる』
とよく云いますが、私にはそうは思えません。
時間の経過と共に、現実を突き付けられ、目を背ける事は許されなくなります。
しかもそれは容赦無く。
だからこそ、悲しみを癒してくれるのもまた、人なのではないでしょうか。
今回の私は勿論、私の家族もどれだけ多くの方々の励ましのお言葉、温かい電話やメール、弔電に救われ、助けられたか分からない程です。
私は、私の家族を励まし、勇気付けて下さった方々へのご恩を一生忘れません。
なぜなら、“普通”のサラリーマンが“普通ではない”告別式を迎えられたのは、その部分での誠実さを積み重ねて来たからだと思います。
長々と書いてしまいましたが、偉大な男を超える為の道は、私の想像していたそれよりも遥かに遠いものでした。
また明日から必死に生きて行こうと思います。
皆さん本当にありがとうございました。